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愛とは何か?実は他人のためでも自分のためでもない中立的な感情!

愛とは何か?

「愛って、なんぞや?」

という疑問が浮かんで来ました。

僕は妻のことを愛しているし、子どものことも愛しています。

でも、「愛している」と言っても、具体的にどういうことなんやろう? と考えたんです。

  • 「一緒にいたい」ということなのか?
  • 「手をつないだり」「抱っこしたり」という身体接触を求めることなのか?
  • 「たくさん話したい」というコミュニケーション的なことなのか?
  • 「相手のことをよく知りたい!」という願望なのか?
  • あるいは、「自分のことを知ってもらいたい」ということなのか?
  • 「甘えてもらいたい」「頼ってほしい」ということなのか?
  • 逆に、「甘えたい」「頼りたい」ということなのか?
  • はたまた「俺の思い通りになれ!」ということだったり
  • 「あなたの思い通りにして!!」ということなのか?

こんな風に考えると、

「“愛”ってよく使われる言葉けど、何だかつかみどころがないなー」

と思ったのです。

「別にそんなん考えなくてええやん」
「愛は愛やろ?」
「深く考えすぎ!」

と思われるかもしれませんが、すみません……身近にあることこそ深く考えすぎてしまうのが僕の性分なのです。

そして、このブログの特色だったりします( ̄▽ ̄)

そんなわけで、「愛とは何か?」について、今日は書いていきたいと思います!

“愛”で成り立っているブログです

ブログへのご来訪ありがとうございます! 「農マドワーカー」のつじばやしです(^^) 大阪の郊外で無農薬・無肥料の田んぼをしながら、インターネット関連の仕事をしています。

と言いつつも、自分が一番に好きなのは“主夫業”だったりしまして、掃除や洗濯、ときどきご飯づくりをしつつ、妻と娘を支えることが大好きです。

なので、このブログの中でも、「妻のことが好きだ!」とか「娘、かわいい!」とか、愛をたくさん叫ばせていただいております。

「妻と娘への“愛”で成り立っているブログ」と言ってもいいでしょう。

ですが、ふと今日のブログを書こうとしたときに

「あれ? “愛”って言葉をよく使うけど、そもそも”愛”って何やねん?」

という疑問が湧き出してきたのです。

愛とは何か?

「愛とは何か?」

この問いは沢山の人が考えているでしょうし、おそらく答えのないものだろうと思います。ですから、今日の記事でもきっと答えは出ません。

ただ、先に自分なりの結論を言ってしまうと……

“愛”とは、自分と相手とが、精神的または物理的な関係で、「つながっていたい」と思う感情

だと考えました。

「つながっていたい」というシンプルな感情

この中で「つながっていたい」というのがポイントです。

“愛”にはよく、

  • 「自分を見てもらいたい」「甘えたい」という利己的な感情
  • 「相手を支えたい」「支えたい」という利他的な感情

という2つの側面があるように言われます。

そして、そこから

  • 「利己的な感情は良くない」「それは本当の愛ではない」とか
  • 「利他的な感情は良いものだ」「これこそ本当の愛だ」とか
  • 「いやいや。自分を無視したら他の人を本当には愛せないよ」とか

そんな議論が生まれたりします。

これが、“愛”という言葉の本質を見えにくくしている部分ではないかと思います。

ですが、今回、僕が考えたのは、

本来、“愛”に「利己(自分のため)」も「利他(他人のため)」も無いのでは?

ということでした。

それゆえに、利己・利他や善悪の判断基準を入れず、単に「つながっていたい」と表現したのです。

“愛”を辞書で調べてみると……

どうしてそんな風に考えたかというと、それは“愛”の辞書的な意味を調べたからです。

「goo国語辞書」によると……

1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「愛を注ぐ」

2 (性愛の対象として)特定の人をいとしいと思う心。互いに相手を慕う情。恋。「愛が芽生える」

3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する愛」

4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への愛」

5 キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー

6 仏教で、主として貪愛 (とんあい) のこと。自我の欲望に根ざし解脱 (げだつ) を妨げるもの。

愛(あい)の意味|goo国語辞書より引用

とあります。

この中で、僕が注目したのは「4」と「6」でした。

「4」では個人的な感情を超越となっており、これは『利他的(他人のため)』な側面と言えます。
(「5」も他者を自分と同じようにいつくしむとあり、同様の側面ですね)

ですが一方で、「6」では自我の欲望に根ざしとあり、完全に『利己的(自分のため)』な側面を指しています。

宗教上の解釈の違いもあるのでしょうが、辞書にこんな風に載っているということは、

「そうか。愛って、“利己(自分のため)”と“利他(他人のため)”の両方を含む言葉なんだ!」

と気づいたのです。

となると、

  • 「自分の欲望で動くのは、愛でない」とも言えないし
  • 「他人のために尽くすことが、本当の愛だ」とも言えないよね

ということになります。

だから、“愛”とは「自分のため」と「他人のため」とに分けられるものではなく、両方が混ざりあったもの……

いや。そもそも、「自分のため」でも「他人のため」でもなく、そういった主観や感情が入らない、もっとニュートラル(中立的)なものだと考えたのです。

“愛”とはニュートラルな意味

そういった経緯により、先ほどの「“愛”とは『つながっていたい』という感情」という結論に至りました。

この「つながっていたい」は、“自分のため”でも“他人のため”でもなく、単に「自分と他者の間に何らかの関係性がある」というニュートラルな意味です。

また、物理的な関係性だけではなく、精神的な関係性も指します。距離が離れていても、相手のことを考えていれば、それは「つながっている」ということです。

ですので、「好き嫌い」という感情も含みません。

むしろ、相手のことを「嫌い」と思うことも“愛”だと言えるでしょう。「愛の反対語は無関心」とも言われるように、相手に関心を向けている時点で、「嫌い」という感情も“つながり”を意味しますから。

つまり、“愛”とは単に、精神的or物理的な“つながり”を示すだけの言葉だと考えるのです。

“愛”によって起こる問題を解消する

こうやって考えると、世間にある“愛”を取り巻く問題も、もっとシンプルに見えてきます。

よくあるのが、相手から“愛”を向けられたときに、「愛してくれているのなら、自分も受け入れなければならないのだろうか?」となってしまうパターンですが、これは一切不要です。

なぜならば、相手の“愛”は単に「あなたとつながりたい」と思っているだけであって、それを受け入れるかどうかは自分の自由だからです。

「愛してるんだ」と言われても、それが“良いもの”や“正義”だったりはしないし、ましてや強制力を持つものではありません。

あくまでも「つながりを持ちたい」というニュートラルな意味であり、それ以上の期待や意味を考慮しないのがポイントなのです。

これだけでは少しわかりにくいので、もう少し具体的な例を出すと…

「こんなに愛してるのだから、私を受け入れて!」

片想いの時などによくある感情ですね(一歩間違うと、ストーカーですけど……)。

これは、「相手と“つながりたい”と思っていること」を意味します。

ですが、それは単に一方が“つながり”を持ちたいと思っているだけで、相手がそれを受け入れるかどうかは別の話です。

“愛”という言葉を持ち出すことで、さも自分が正しかったり誠実だったり頑張っているように見せていますが、結局は「つながりたい」というだけ。

ですから、相手はその「つながりたい」という想い(=愛)を受け入れる必要はないし、それはあくまでも相手の自由意志によって決まります。

「あなたを愛してるから、こんな風に言ってあげてるのよ!」

よく親が子どもに対して言う言葉ですね。

でも、愛は「つながりたい」という想いだけであって、教育のためにどんな言動を取るかは別の話。愛を理由に、子どもの行動をとやかく言ったり、怒ったりするのは論理的におかしいのです。

つまり、教育や叱咤のために、“愛”は根拠とはなりません

もし相手に対して何かを教えたかったり叱ったりしたいのであれば、“愛”以外の根拠が必要です。

“愛”(=「つながりたい」という感情)は、相手との関係性を築く前提とはなっても、“愛”を理由に教育したり叱ったりしても良いことにはならないのです。

「世界は“愛”で出来ているのです!」

よくスピリチュアルなどで言われる言葉ですね。

また、これによって「世界は“愛”なのですから、あなたも他者を愛しましょう!」という主張になったりします。

ですが、これってすごくおかしいことです。“愛”(=「つながりたい」という感情)が、相手の言動を強要する根拠にはなりませんから。

そもそも、「世界は“愛”で出来ている」という言葉を言い換えると、「世界は“つながり”で出来ている」となります。

これって、物理学的に見て当然ですよね? この世界は生き物や物質が互いに関係しあって成り立っているので、「“つながり”で出来ている」というのは事実ですから。

ですが、“愛”という言葉を持ち出すことで、大袈裟だったり高尚な言葉のように聞こえてしまいます。そして、それによって、相手の価値観の変更や何らかの行動を強要する場合があります。

けれど、「世界は“愛”(=つながり)で出来ている」という言葉は、単に事実を表現しているだけであって、それ以上でもそれ以下でもありません

その言葉によって、相手が価値観や行動を変更する効果や意味は持たないのです。

“愛”に余計な感情を含めない!

こんな風に見ていくと、“愛”という言葉が世の中で問題を起こす理由は、そこに余計な感情が含まれているからだとわかります。

もちろん、それが良い効果を発揮することもあるのでしょうが、“愛”という言葉に過度な期待や思い入れを抱くあまり、逆に人間関係を悪化させてしまうケースも多々あります。

ですから実は、“愛”という言葉を使うときこそ、余計な感情や期待を入れず、ニュートラル(中立的)な単語として使うようにする。

その方が、人間関係や社会が円滑に進むのではないでしょうか。

例えば我が家で言えば……

記事の最初に、「僕は妻と娘を愛しています」と書きましたが、それも単に「妻と娘とつながっていたい」という意味に過ぎません。

実は、「好きか嫌いか?」や「どれだけの時間一緒にいるか?」や「どんな風に接するか?」は全く別の話なのです。

だから、例えば……

  • 妻に対して「僕はこんなに愛してるのだから、僕に優しくしろ」と言ったり
  • 娘に対して「君のことを愛しているのだから、言うことを聞け」と主張したりする

のは、完全に的外れということになります。

また逆に、

  • 「僕は妻のことを愛してるのだから、妻に尽くさねば!」とか
  • 「僕は娘のことを愛してるのだから、娘を立派に育てねば!」

といった考えも的外れです。

なぜなら、そもそも“愛”には「自分のため」とか「相手のため」という意味合いはなく、単に「つながりを持ちたい」というシンプルな言葉に過ぎませんから。

「誰かのために」と言うと聞こえはいいですが、“愛”を根拠にして「相手のために」と行動するのは違う、ということですね。

まとめ

……って、最初にお伝えした「“愛”とは『つながっていたい』という感情」という結論を前提にして、話を進めてしまいました(^^;;

“愛”に関しては様々な意味があり、人によって捉え方が違うので、僕のこの解釈が正しいというわけではありません。

ですが、“愛”という言葉に余計な意味や感情を含まず、もっとニュートラルな捉え方をするほうが、人間関係や社会がスムーズに進むと思うのです。

もう一度ポイントを整理すると……

愛とは何か?
  • “愛”という言葉を調べると、利他的な意味と利己的な意味の両方がある
  • となると、それは一人一人の捉え方による違いであって、“愛”という言葉そのものは「利他的」も「利己的」も持たないと考えるのが自然
  • であるから、“愛”という言葉は単に「(精神的または物理的に)つながりを持ちたい」というニュートラルな意味を指すのではないか
  • そう考えると、世の中で“愛”を巡って起こる諸問題は、“愛”という言葉に過度な期待や感情を含めているからだとわかる
  • よって、“愛”という言葉は、余計な感情や期待を入れず、ニュートラル(中立的)な単語としてとらえる方が、実は人間関係や社会がスムーズに進む

となります。

少しぶっ飛んだ考えになってしまいましたが、何かしらご参考になるところがあれば幸いです(^-^)

あなたの“愛”(=人とつながりたい感情)が、あなたの人生により良く働いてくれますように!!

ABOUT ME
つじばやし@農マドワーカー
つじばやし@農マドワーカー
「ノマドワーカー」ならぬ「農マドワーカー」です。 地元の田んぼで無農薬のお米づくりをしながら、IT関連のお仕事をしています。 ブログは毎日更新しているので、よかったらまた遊びに来て下さいね!